左は、大正14年5月に発行された「養老郡志」に添付された「養老郡地図」の一部です。
これをみると、昔(大正時代)の牧田川は、多芸西部の「大墳」辺りで南北二派川に分かれ、南直江辺りでまた一筋になって流れていたことが分かります。
多芸村は、牧田川の南派川を境に、養老村や高田町と隣接していました。
牧田川が今のようにまっすぐな広い川になったのは、昭和6年に牧田川下流促進委員会が作られ、烏江から上流の広瀬橋までの約8㎞を県が、烏江の牧田川・杭瀬川合流点から下流は国が改修を行うことになってからです。工事は昭和8年から始まり、太平洋戦争を挟んで工事は中断し、完全に工事が終わったのは昭和40年でした。
多芸村は、明治30年4月に、市町村の組織替えにより、「直江」「金屋」「飯積」「北大墳」「多岐」の五か村が合併して誕生しました。そして、昭和29年11月3日、全国の町村合併に伴い、養老町になるまで、58年間存続したことになるます。
ところが、「多芸村」は、大正10年の「多芸尋常小学校」の創設まで、約24年間、村民の子弟が揃って学ぶことができる「小学校」を、待たねばなりまんでした。
その間、多芸村の教育は組合立か委託教育によって、僅かに教育の命脈を保っていたのです。
その概略を大まかに示すと次の通りです。
直江・・・明治6年島田村藍田校下、大正3年より小畑村に教
育事務を委託
金屋・・・明治6年飯田村と連合して敬業校下、明治19年よ
り日吉校に委託教育
飯積・・・明治6年飯田村と連合して敬業校下、明治19年よ
り小畑校に委託教育
大墳、多芸・・・明治6年橋爪村日新校下、明治9年より大墳
村文開校下、明治24年大墳尋常小学校下、明治3
5年高田町や小畑村に教育事務を委託
このように、多芸村の教育は、大正時代になっても、高田、日吉、小畑の各小学校の委託教育に頼っていたのが現状です。
このような歴史を振り返ると、大正10年4月に「直江地区」に新設された「多芸小学校」は、村民にとって「悲願の賜物」「自立意識の結晶」といえるのではないでしょうか。
下は、昭和20年代後半頃の「多芸小学校」(養老町史 下)
参考文献
・早崎氏の
研究冊子
・養老町史
・郷土の治水
養老町
養老町の明治24年測図(2万分の1)と大正9年測図(2万5千分の1)の大日本帝国陸地測量部地図がありますが、牧田川は明治24年頃には複雑に分流していたのが、大正9年頃には五日市で大墳村と高田町に大きく2本に分流しており興味深いです。(鈴木)