②で、大正10年4月1日に、多芸小学校が「多芸尋常小学校」として開校したことを掲載しましたが、ここで学ぶ児童は、それまで委託教育を受けていた高田・日吉・小畑の三校で学んでいた多芸村の子どもたちであり、それぞれの学校より転校しての学級編成が行われました。しかし、高学年の児童の中には転校を嫌い、残留した児童も何人があったようです。
早崎氏の研究資料には「創設時(T.10.4.1)の多芸小学校の児童数」につして、下記のように報告されています。
ちなみに、大正10年の統計による多芸村の人口は、2,039人で小学校で学ぶ児童は(転校しなかった児童、不学の児童も少々あったでしょうが・・・)人口比16.6%となります。少子化の現在は、どんな数値になるでしょうか。
ところで、早崎氏は、研究資料で「多芸小学校の学校沿革誌や卒業者名簿等」について、次のように述べられています。
「多芸小学校が廃校になったのは、僅か30年前(早崎氏は平成10年3月に、研究資料を編集・発行された)の昭和44年の3月であるにもかかわらず、廃校当時の残務処理に何らかの不手際があったのか、沿革誌のみが養北・日吉両校に分割保存されていたような始末で、永久保存たるべき卒業者名簿を始め、学校関係資料が、現在何も保存されていない。」
こんな中で、東奔西走、資料収集に汗を流され、児童数の推移を表にまとめられたり、創立当時の校舎について、平面図付きで説明を加えられたりと、その記述にいたるのに、大変な時間と労力を費やされた氏のご苦労の結晶が、平成10年に発行された研究資料です。
下は、氏が調査された「多芸小学校・国民学校就学児童数の推移」です。抜粋して紹介します。
下は、昭和32年に改築された校舎の鬼瓦(多芸公民館蔵)