住民の下の写真は、多芸公民館集会室の背面に、額入りで展示され、大切に保存されいる「多芸国民学校時代の校旗」である。
この校旗について、早崎氏はの研究資料で次のように述べておられる。
校旗は、創立当初より昭和16年度までの「多芸尋常高等小学校と、昭和17年度より22年度までの「多芸国民学校時代」、そしてそれ以後廃校までの「多芸小学校時代」の三組の校旗が保存されているべきであるが、残念ながら現存しているのは「多芸国民学校」時代の物のみである。
この国民学校の校旗も、平成8年夏、多芸小学校の沿革誌等関係資料探索中に、偶然発見したような始末で、他の2旗は紛失してしまったものと断念せざるを得ず、誠に残念である。筆者の小学校時代を振り返ると尋常高等小学校の紫地の校旗には
陸上競技大会などで優勝したリボンが幾本か垂れ下がっていた記憶が蘇ってくるが、これらを失ったことは心寂しい。
上は、校旗に刺繡されている「多芸小学校」の校章である。
「校章」について早崎氏は、次のように述べられている。
隣校の日吉・牧田・広幡小学校の記念誌に掲載されている校旗の中央に描かれている校章は、いずれも桜の五弁花を象ったものばかりだが、多芸小学校の校章は、上に示すが如く、極めて特色がある。
この校章は、昭和44年廃校当時、男子の帽子に徽章(きしょう)として着用されていた事実から、創立当初より廃校まで校章として継承されてきたことは、間違いない。
校章の由来は、残念ながら不明だが、形は歴史上の三種の神器を象ったものと聴き及んでいる。確かに中央の八角形(図の①)は、三種の神器の八咫鑑(やたのかがみ)を象ったものであり、周囲にペン先のように五本描かれている(図の②)のは天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・草薙剣とも称される)、そして(図の③)は八尺瓊勾玉(やさかやのまがたま)を象ったものと思われる。
この特異な形状をデザインされた作者とか、選択の理由等、残念ながら不明であるが、多芸小学校創立当時、大正8年に第一次世界大戦が終結して、日本が世界に雄飛して国威発揚に力を注ぎ、忠君愛国の教育を確立していった時代であり、そのような時代背景があったものと思われる。
公民館長時代、私は、集会室に掲示された、たった一つ遺る「多芸小学校の校旗」(国民学校時代のものだが・・・)を大切に管理・保存していくことも、公民館長の大事な仕事の一つととらえ、折りあるごとに住民の皆さんにも紹介してきた。