今号は、戦後(昭和22年)から昭和44年3月の廃校までの多芸小学校の校舎について紹介します。
太平洋戦争は、日本をはじめ多くのアジア諸国に甚大な被害を残して、昭和20年8月15日に終わりました。しかし、人々は戦争で破壊された焦土の中、復旧の土音高く、戦後の日本を築き上げ、昭和の繁栄期を作り上げてきました。昭和21年11月3日には、新しい日本国憲法が公布され、第26条には「国民の教育を受ける権利」が明記され、「6・3・3制」の学校教育が昭和22年4月1日よりスタートしました。
ここ多芸村でも、太平洋戦争中より次第に児童数が増加しつつあり、義務教育法の制定により教室不足の事態が生じ、校舎の増築の必要に迫られました。学校改革により学校名も「多芸国民学校」から「多芸村立多芸小学校」に改称されるとともに4教室の増築が、役場跡地に、昭和22年7月に起工、12月28日に竣工の突貫工事で、立派に完成しました。
この増築校舎は、地坪54坪(約178.2㎡)、総延建坪108坪(356・4㎡)、総工費100万円(全て村民の寄附でまかなわれた)でした。
このお陰て新学制による組合立高田中学校多芸分校に2教室を貸与し、多芸村の中学生生徒の教育をここで、行うことができました。(下の平面図は 早崎 誠 氏 の研究冊子より)
昭和29年11月3日、養老町合併に伴い、校名を「養老町立多芸小学校」と改称します。危険校舎であったため、校舎改築が行われ、第一期工事として南舎並びに中舎の2棟(130坪、約429㎡)を昭和33年3月27日竣工、第2期工事として同年工事中の処、同年11月24日北舎1棟を竣工、11月27日に、落成式が行われましした。なお、2階建て校舎は、平成3年、多芸公民館新築にな伴い、わずか44年間でその姿を消すことになります。(下の写真は、昭和33年11月27日に挙行された多芸小学校落成式の様子 養老町制50年記念誌「わが郷 養老」より)
中学校教育を「多芸分校」で、学ばれた方もいらっしゃると思いますが、昭和53年3月発行の「養老町史 通史編 下」には、このころの高田中学校について次のように延べられています。
「学区制改革によって6・3・3制の制度が確立した。この時、養老郡中部五ヶ町村(高田・養老・広幡・小畑・多芸、日吉村のみS.23.4.1に当学校組合に加入)は、学校組合を結成、岐阜県養老郡学校組合立高田中学校が開校され、当時独立校舎がなく、高田町及び広幡村は高田小学校北校舎を借り受け、之を本校と称し、他の諸村は各小学校の一隅を借り受け(養老村のみ役場楼上)、これらを分校と称した。翌年牧田川跡を敷地として新校舎が完成、ここに2年生・3年生を収容、1年生だけは従来通り高田小学校北舎に収容、これを東舎と称し、依頼面目を整えて来た。昭和24年5月8日、東校舎落成、高田小学校校舎を変換する。」