その昔、多芸小学校校舎の中央部を鎌倉街道が通っていたと伝わっています。多芸小学校創立当時(大正10年4月)以前に、校地東の南北を貫く通り(現公民館東の通り)は、完成しており、創立前には直江の子どもたちが小畑小学校へこの道を通って通学していたという証言を得ていますので、従前地は、水田であったと推定されます。
創立当時の校舎
校地の一部には多芸村の役場が建ち、村行政が行われ、ここ多芸小学校のあった地は行政と教育、まさに村の中心でした。校舎は木造建築(建坪 不明)で、図に示す通り七教室になっており、土間と教室の間には、板廊下が設けられ、児童の履物は全て土間に並べて置き、素足または上履きを使用し、土足厳禁でした。
北側6教室が1年生から6年生のでの教室、職員室南側が高等科教室に割り当てられ、式典の時は、北側校舎の玄関より西側3教室を開放し、式場とせざるを得ませんでした。
北側最西端に、天皇陛下の御真影を奉安し、祭日等の式典には児童が奉賛するようになっていました。
窓ガラスは、粗末で隙間風が容赦なく吹き込む教室であり、もちろん冷暖房設備はあるそはずがなく、木造の机・椅子を使用した小さな校舎であったと思われます。
また、教室が少なく一学年1教室、男女複合教育で、現在のような学級定員も決められていない時代で、まさしくすし詰め教育が行われていたことが伺えます。
上の表から伺えるように、常に50名から60名を超える児童が一つの教室で学んでいたのです。まさしく「すし詰め教育」、しかし、待ちに待った「多芸小学校での教育」。村民の多芸小学校に託する思いはことさら強く、ここで学んだ児童も、一生懸命勉学に励んだのではないでしょうか。
今号は、早崎氏の資料に、若干の私見を入れさせていただきました。