多芸小学校の校舎は、前号で報告したように、1月末には、完全に解体され、現在は「二宮金次郎の石像」と「閉校記念碑」が、ポツンと立っているのみであり、寂しくなりました。
今号では、12月半ばに、解体にな伴い、校舎に残っているものを処分した時に、発見された旧多芸小学校の遺物(大事な文化財)について紹介します。
この2つの遺物も他の遺物と共に、多芸公民館に大切に保管してもらっています。
❶ 校舎に掲げられていた大時計
廃校前年(昭和43年度)末に撮られたであろう職員写真の背景には校舎が写っており、校舎に取り付けられた大時計も確認されますので、この時計だと思います。
木枠制で、全体の直径が65㎝で、ゼンマイ式です。ゼンマイを巻くネジや円形の中で、時を刻んだであろう「振り子」も、しっかり遺っていました。
更に、「寄附 大橋 郁男」と時計の製作会社「ANSONIA
U S A」の文字を読みとることができます。調べてみるとこの会社は1854年創業のアメリカの由緒ある時計会社のようで、当時としては、相当高価なものではなかったかと推測されます。
裏には「寄附 昭和29年11月3日 多芸小学校 養老郡養老町御幸町 大橋郁男」と、寄附していただいた日時と寄附していただいた方のお名前が書かれています。
昭和29年11月3日は、「養老町」が誕生した日です。多芸小学校が「養老町立」になっことを記念してご寄付いただいたものと思われます。
ところが、「御幸町」で迷いました。そんな町名は養老町にはないからです。そこで、何か手かがりはないかと多芸西部の古老の区長さんにお伺いしたところ、この方は、もちろん故人ですが三神町の方だということがわかりました。先日、お宅へお伺いしましたが、お留守でしたので、隣の古老(この方も区長さんをやっておられた)にお話を伺い、「大橋」さんは、確かに三神の方だということが分かりました。
それでは、何故「御幸町」なのか。ここからは私の推測です。それまで「多岐村」「大墳村」と呼ばれていた字名が、養老町誕生に伴い、好字を用いた町名に改められたと聞いています。「三神町」は、「多岐神社の3つのご祭神」である「倉稲魂神(うかのみたまのかみ)」「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」「太市比咩神(おおいちひめのかみ)」に因んで名づけられた。また、「コンコンと泉がわく豊かな土地」に因んで「泉町」と名付けられたと聞いています。当時はいろいろな名前が候補に上がったろうと考えられます。「御幸町」は、そのうちの一つではなかったかと思われます。
➋ 「水」の文字が入った鬼瓦
水の文字が入った鬼瓦です。①号で紹介した「學」の文字が書かれた鬼瓦は、分かるのですが、この「水」の文字が入った鬼瓦は、どこに、そしてどんな願いをもって掲げられたのでしょうか。
ひよっとすると昭和33年改築前の校舎、奉安殿があった近くの屋根に、防火や水難除けとて掲げられていたのではないと思うのですが・・・・。