文化財巡視に同行させていただいての報告
R.4.7.4 大橋 和義
⑦ 大巻 薩摩工事役館跡 (県指定)
「平田靱負翁終焉の地の記念碑」「平田靱負翁の等身大の石像」が建立され、地域の方々の憩いの場ともなっています。
ここでは、休憩所に設置された案内板の写真、及び説明板の全文を掲載します。
むかし、濃尾平野は、木曽、長良、揖斐の三大河川が乱入して、大雨の度に河道を変え、自然の暴威になすすべもない状態でした。しかし、当時の領主たちは根本的な対策をたてる力もなく、再三の請願に幕府もようやく腰を上げ、宝暦3年(1753)12月、薩摩藩に治水工事のお手伝いを命じました。これが宝暦治水工事で、その規模が江戸時代、濃尾における治水普請中最大であったばかりでなく、三川の分流も企てた画期的なものでした。に
薩摩藩では「住民を救い、日本国を興す」ためにと、この大事業をひき受け、宝暦4年閏2月9日、総奉行平田靱負以下の藩士が当地(当時、安八郡大巻村)に到着、豪農、鬼頭兵内宅を元小屋(本陣)に、根古地新田(旧池辺小学校敷地)中島九郎ェ門宅を第二元小屋として、工事に着手しました。
工事は、美濃、尾張、伊勢3国にわたり、947名という多数の藩士が馴れない治水事業で苦労しました。その上、数次の出水で作業は思うように進まず、つよい幕吏の監責から自刃する人が続出、疫病に倒れた方と合わせて、実に88名の犠牲者を出しました。
こうして、あらゆる困難を克服、1年後の同5年3月、各工区とも見事に竣工、5月22日の幕府の検分には、一同その出来栄えに驚嘆したということであります。
平田靱負は藩主島津重年公に工事の完成を報告したのち、多数の犠牲者を出し、40万両の大金を費消した責任を一心に負い5月25日早朝、この元小屋において割腹させられたのであります。
昭和37年 岐阜県史跡指定